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十八史略五代十国時代編


このサイトの公開20160306制作ギョロ
571:唐を滅ぼし、梁(りょう)の皇帝となった
朱全忠(しゅぜんちゅう)は、ストッパーだった
張皇后を亡くすと、張り切って女色に励む。
572:朱全忠(しゅぜんちゅう)太祖は、気に入らない者は
左還し殺させていた。
そしてそれは肉親にも同様で、
エイ王友珪(ゆうけい)が左還された。
死を恐れた友珪は太祖の態度に不安を抱く韓ケイ
の元を訪ねる。
573:友珪(ゆうけい)が帝位についた。
しかし人望も無くやりたい放題な始末。
均王友貞(ゆうてい)は謀反を企む。
574:均王友貞(ゆうてい)が帝位についた。
約二年後、半独立していた魏州の王楊師厚(ようしこう)が死んだ。
コレを機に、魏州の弱体化を謀るがかえって反乱を起こしさらに
晋王李存勗(りそんきょく)に助けを求めた。
好機と読んだ李存勗は、梁軍を襲う。
575:魏州の開封の尹劉ジンは、対晋王李存勗として密かに陥れようとしていた。
だが梁の帝も警戒する李存勗は、魏州の開封の尹劉ジンを策略家と認識していた為
先手を打ち、逆に劉ジン軍をピンチに陥れた。
恐れて崩壊しそうな軍を劉ジンは必死になだめる。
576:晋王李存勗に負け籠城した劉ジンであったが
均王から何故戦わぬかと叱責してきた。
しかし今戦っとしても負けは見えている。
劉ジンは均王に理由を述べ兵糧を乞うのだが。
577:晋王李存勗(りそんきょく)に突然劉ジン軍が攻撃しかけて来た!
混乱する軍。しかし彼の部下(多分)李存審(りそんしん)が
2千の騎兵で助けに入る。
578:晋王李存勗(りそんきょく)破れた劉ジン軍。
とは言え、梁1の名将は彼である。
均王は彼を召し出そうとするが・・・・・。
579:晋王李存勗(りそんきょく)は梁との決戦を挑もうとしていた。
しかし異種族契丹が新州を襲って来た!
そこで周徳威(しゅうとくい)を派遣する。
580:晋王李存勗(りそんきょく)は梁との決戦を挑もうとしていた。
周徳威(しゅうとくい)が、大敗し、幽州へ撤退した。
このまま放置するのは得策では無いと言う家臣の進言に従い
李嗣源(りしげん)軍を派遣する。
581:
梁に賀カイと言う歩兵の大将と
騎兵の大将謝彦章(しゃげんしょ)がいた。
賀カイは謝彦章を嫌いを通り越して憎んでいた為
何とか始末しようとする。
582:
梁の賀カイと言う歩兵の大将が
騎兵の大将謝彦章(しゃげんしょ)を殺っつけた事を知り
喜んだ晋王李存勗(りそんきょく)は、周徳威(しゅうとくい)が
とめるの聞かず、梁に戦いを挑むのだった!
583:
梁はますます侵略され、ついに晋の李存勗は
唐をたてると帝位につき、ウン州を落とす始末。
梁は猛将王彦章(おうげんしょう)を切り札とした。
しかし彼が、均王側近の趙巖や張氏をあからさまに嫌い
彦章の副使段凝(だんぎょう)に妬まれていた為
3人が示し合わせて彦章を役立たずに見せ掛けようとする。
584:
晋は国名を大唐としていた。梁は着々と大唐に侵略される一方。
均王は、一体どうすればいいかあがくのだが。
585:
末帝こと均王は自害し、唐の荘宗が主権を握った。
が、この帝にミーハーで、気に入った伶人(役者)と
化粧をして戯れる程であった。
ある日伶人を伴って狩りをした所、田畑を荒らしてしまった為
県令が諌めた為荘宗はキレて、殺そうとした。
そこへ、伴っていた伶人が出てくる。
586:
この王朝自体も大分腐敗気味なのだが
蜀がそれを上回る腐敗で問題だったので
荘宗は皇子魏王継岌(けいきゅう)を総大将
副将に郭シュウ韜(かくしゅうとう)を討伐にやる。
587:
郭シュウ韜(かくしゅうとう)を疑い殺した件により
彼の一族は勿論関係者すら殺された。
民は動揺し、その動揺は謡として伝わり、
その中には建国の立て役者の李嗣源(りしげん)も含まれたが
とうの李嗣源は動じなかったが、荘宗は彼を疑っていた。
しかし嗣源以外はどうしようもない反乱が起き仕方なく派遣するが。
嗣源の兵達は反乱軍に同情し、泣いて説得しても聞き入れず動こうとしない。
反乱軍も嗣源以外受け入ないし彼の意見を聞かなかった。
そこで嗣源は、一旦ここを離れて軍を立て直すことも含め、
反乱軍を騙すことにする。
588:
荘宗は李嗣源に大梁が占領された上、
戦闘中の流れ矢に当たり死んでしまった。
皇后を始め、彼に従っていた物達は
その骸を見向きもせず逃げる始末であった。
だが只一人、荘宗に仕えていた伶人
善友(ぜんゆう)は彼を弔おうとする。
589:
後唐は李嗣源が帝になり明宗皇帝となった。
彼の時代は8年で、彼の死後閔(びん)帝が建ったが
その位をロ王李従珂(りじゅうか)がねらう。
590:
後唐ロ王李従珂(りじゅうか)ロ王がついた。
そして帝に成る以前から対立していた
石敬(せきけい)トウがいた。
しかしトップへ上り詰めたロ王はこちらが有利であると
慢心していたものの、家臣として許していなかった。
ある日敬トウの妻が姉のロ王の妻へ会いに行った。
そして帰ろうとする敬トウの妻へ、敬トウが何かしでかさないよう釘を刺す。
591:
ロ王に対し、石敬トウが挙兵したものの
周りをロ王軍に包囲されろう城を余儀無くされた。
兵糧が無くなる今、頼りの契丹にどう救援を頼むか悩むのだった。
592:
石敬トウは契丹の強力な後押しで
洛陽を落とした。
ロ王は薛文遇(せつぶんぐう)を呪いながら
死に場所として玄武楼(げんぶろう)へむかう。
593:
後晋高祖事石敬トウの跡を継いだ斉王石重貴(せきちょうき)出帝。
彼をここまで導いた(けいえんこう)は
高祖であわされた屈辱を晴らす為、出帝を説得する。
594:
契丹事大リョウを怒らせてしまった為、
後晋に攻め入り、民衆や兵士達に凄まじい暴虐で仕返しをした。
あまりに酷かった為民衆に手痛い抵抗を受け撤退した。
そのため斉王石は責任を取らされ追いやられ
かわりに遠い親戚に当たる杜重威(とちょうい)が起用され
また契丹が攻めて来たんだが。
595:
契丹の太祖は後晋を落とすとまたやりたい放題で
民衆は荒み、契丹を憎んだ。
彼等は死ぬか盗賊となって増える一方だった。
そして盗賊達の鉾先は契丹ばかりと成る。
596:
契丹の太祖は後晋の残党の凄まじさにさじを投げ去り。
劉知遠(りゅうちえん)が後漢をたてそこをまとめるべく
史弘(しこう)チョウを派遣する。
597:
劉知遠(りゅうちえん)が後漢をたてた。
そんななか杜重威(とちょうい)が造反し
契丹軍と共にに籠城するのだが。
598: *グロ注意

劉知遠(りゅうちえん)は後晋を滅ぼし
自国にて造反した杜重威(とちょうい)わざと生き恥を晒させていた。
知遠が死に子の承裕(しょうゆう)に重威の処刑を命じ実行された訳だが。
599:
劉知遠(りゅうちえん)死に子の承裕(しょうゆう)が
皇帝となった。頼り無い性格の帝であったが
それを補佐する郭威(かくい)、史弘(しこう)チョウ、
揚ヒン、王章(おうしょう)等が利益に走ること無く働いたからであった。
が、部下の扱いが下手で、様々な相手から恨みを買って居た。
隠帝(承裕のこと)の取り巻き達は、それを使い、
暗愚な帝に彼等を酷評して自分等の味方にしようとする。
600:
隠帝から死を賜ってしまった郭威(かくい)は
今後の国家に絶望し、部下に首を跳ねる様命じるが
逆に部下達は彼を説得しようとする。
601:
隠帝に対し挙兵した郭威(かくい)であったが
この皇帝を倒すつもりは毛頭無かった。
アホみたいに楽勝で兵を進める中
皇帝を見つけたら殺さず保護する様下知するのだが。
602:
郭威は次の天子を高祖の弟劉シュウの子インを帝にし
本人は契丹討伐に北へ向かった。
で、黄河を渡って数日ぐらいで兵士達の様子がおかしくなる。
603:
後周の太祖となった郭威は、前の王朝後漢を顧みて
民政の安定に腐心する。
604:
契丹では太祖の子兀欲(こつよく)が世宗として立って居たが
酒好きが災いして、内乱が起きて出兵の機会を失って居た。
ところが、後周が立つと、その前の北漢の高祖の弟劉シュウが
それを潰す為北漢をたて、契丹に援助を仰いで来た。
世宗が大喜びで応じようとするのだが。
605:
北漢劉シュウが契丹と共に後周を攻めて来た!
撃退せよ!
606:
後周の太祖が死に世宗がたった。
2代目はロクなやつは居ないという今までの歴史背景から
好機と見た北漢劉シュウはまたも契丹と共に後周を攻める!
607:
対北漢&契丹で撤退はしたモノの大打撃を討つことが出来き自信をつけた
後周の世宗が南唐攻略に本腰を入れた。
だが、南方は水が多い為今の状況では敵に有利だし何より
水練に成れて無い軍に不利である。
そこで、都のベン水にて、南唐の捕虜を使い訓練をする。
608:
後周の世宗は南唐攻略の為水練を強化し、いざ攻略の巻。
609:
後周の世宗はいよいよ契丹攻略を開始するんだがちょっと体調に心配が。
610:
後周の世宗はいよいよ契丹攻略の問題を抱えつつ
国の有り様にも問題が有るとし、攻略と同時進行で問題解決をしようとする。
611:
後周の世宗は若死にし,7才の梁王宗訓(そうくん)が立った。
若すぎるトップの場合は実力者がサンダツという
今までの習慣から、臣下はほぼ最大実力者である
趙キョウ胤にという動きが、黙々とあったが当人は知らぬ振りだった。
ある夜、趙キョウ胤が酒で曝睡している所に
弟が武装した将校達と共に起こしにやってくる。
612:
起床後すぐベン京へ帰還した趙キョウ胤軍は
軍を解いて趙キョウ胤自身はは公署で時を待っていた。
暫くすると、後周の宰相范質、大臣達が連れてこられた。
それを見た趙キョウ胤は、暫く号泣するのだが。
どうする范質?
613:
後周の時代。南唐を攻めていた趙キョウ胤軍。
自軍にやる気の無い兵がいるせいか苦戦する。
そこで自ら出陣と偽り、怯懦な将士をチェックする。
後周だった頃の話。
武将ナンバー1だった趙キョウ胤は酒を飲もうと
茶酒を司る曹彬(そうひん)と言う役人の所へ行き酒を所望した。
だが曹彬は「ここの酒は官の酒であり、公以外で出す訳にはいけません。」
と、断わりを言うと趙キョウ胤用にに酒を買いに出ていく。


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(北)宋時代
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