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十八史略(北)宋時代編


このサイトの公開20160306制作ギョロ
614:
宋王朝をたてた趙キョウ胤は、
たてたのを奪わんと反乱を起こした節度使平定した後
皆を集めて宴会をする。
615:
宴会もたけなわとなった時
趙キョウ胤は、参加している武人達に何やら言う。
ざわめく武人達であったが。
616:
趙キョウ胤こと太祖は、こっそり宰相の趙フの家に来る事がしばしばあった。
ある大雪の夜、さすがに今日は来ないだろうとリラックスする趙フの家に
太祖は向かうのであった。
617:
趙キョウ胤こと太祖は、こっそり宰相の趙フ宅へ来ていた。
その後弟晋王も来てくつろいでいたわけだが。
618:
宋の宰相趙フはその性格と立場上妬まれる事が有った。
その為ある日趙フを弾劾する奏上がされる。
619:
宋の宰相趙フに呉越王から海の幸を送ると称して
10の瓶に瓜の種の形をした純金を送った。
更にはタイミングを見たかのように太祖がやって来て賄賂がばれてしまった。
趙フは必死に弁解する。
620:
宋の宰相趙フには欠点が有った。
人を憎む事が強く学問が無かった事である。
憎む事はともかく、学問はなんとか成るもんだと
太祖は趙フに書物を読む事を勧め、ならばと趙フも
ソレに答えるべく書物を読み捲るようになる。
622:
太祖から蜀討伐軍の監督を任された曹彬(そうひん)。
平定して婦女子を略奪する宋軍の兵から奪う。
どうする范質?
623:
蜀討伐軍の任務完了した曹彬(そうひん)。
凱旋する彼の荷物があまりにも多いので
誰もが中身が何か推測する。
624:
南唐討伐に曹彬(そうひん)が命じられ副将に潘美(はんび)がつけられた。
しかし辞退する曹彬、だが潘美の方はと言うと・・・・・?
625:
南唐討伐の手段として都を包囲する曹彬(そうひん)。
南唐の主李イクは戦で都が落とされるのは目に見えているので
「我々は貴国に使える身なので争う鵜つもりは毛頭無いので交戦を止めて欲しい。」
と太祖に何度も訴えたが、止める気配が無い。
交戦するとは言え、穏便に落としたいと向こうから降伏を待っていたが
気長に待ち過ぎて、春に包囲してから冬になってしまった。
そこで「我が方は11月27日を決戦の日として必ず落とすので
何なりするがいい。」と果たし状を送って来た!
どうする李イク??
626:

南唐討伐決戦前に曹彬(そうひん)が 決戦前に病に倒れてしまった。
諸将達は心配して見舞いに来る。
627:
曹彬(そうひん)が南唐討伐決戦を開始する。
628:
曹彬(そうひん)の南唐討伐後の李イクの処置はあっさりしたものだった。
その為他の将兵が不安になる。
629:
宋の太祖が病に伏した。
自分の死期を察した太祖は晋王を呼び
側に侍っていた皇后や王子に聞こえぬ様
何かやら言っているのだが。
630:
南唐が出来るまでの話。
未だ唐があった頃、揚州を掌握していた節度使揚行密(ようこうみつ)は
着々と力をつけ、ついには呉国をたてた。
彼の3代目でそこの武将であった徐温(じょうおん)に
算奪されかかったが不発し、義子の徐知コウ(じょちこう)が
禅譲と言うかたちで帝位をおうとする。
631:
南唐がを立ち上げた徐知コウ(じょちこう)は
李ベンと改名し国力の充実を謀る。
632:
南唐の跡目を李イクが継いだ。
才覚が無いのに臣下がおだてる為
四方隣(解ってるのは3ケ所)を侵略する。
633:
後周の保護区に成り下がり国主として
残念な人生を送る李イク。
その惨じめさから逃避するべくいろいろやる。
634:
惨めなな人生を送る李イク。
その惨じめさから逃避するべくさらにいろいろやる。
635:
惨めなな人生を送る李イクの大切な慰めの周皇后が病に伏してしまった。
意識不明になってしまった彼女を何とかしようとあれこれする。
636:
周皇后意識不明になってしまった時
看病してくれたのは妹だった。
病人の自分より、妹に鞍替えするのでは無いかとおびえる。
637:
小周皇后と晴れて結ばれ、満ち足りる李イク。
しかし現実では、宋に何度も進貢をさせられ
さらには鄭王李従前(りじゅうぜん)を遣わすと
抑留したあげく、唐の名を捨て江南国主となれと命令される始末。
憤激した家臣達は宋への抵抗を主張する。
638:
宋の太祖は李イクが、来朝しないのを口実に軍を仕掛ける。
639:
大変な事になった!李イクの来朝拒絶を口実に
宋の太祖が軍を起こし襲って来たのだ!
慌てた李イクは重臣徐鉉(じょげん)達に攻撃を緩める様嘆願する。
640:
南唐が滅んでしまったので元そこの家臣だった徐鉉(じょげん)は宋に仕えていた。
宋は太祖から太宗へ変わったある日、徐鉉を呼び出し
李イクと会ったか尋ねるととんでもないとの返事。
そこで許可が降りたと言って李イクに会って来いと言われ行って来る。
661:
西夏に劉平(りゅうへい)が投降した!
と言うウソ情報で朝廷は『劉平一族皆殺し!』
と言う判断に向かっていたが
知制コウ(ちせいこう)の富弼(ふひつ)が抗弁する。
662:
富弼(ふひつ)が抗弁と共に
その時の宰相の一人であった
張士ソン(ちょうしそん)の無能ぶりを
諌官の韓キにより叩かれ、呂夷簡(りょいかん)が復帰した。
返り咲いた呂夷簡は、韓キや范仲淹(はんちゅうえん)を
范雍の後任とし、政治の中央から追い出した。
范仲淹は昔延州の知事をしていた為、軍事練習を猛烈にする。
663:
対夏西問題は解決したが、契丹が侵略すると言う問題が上がった。
そこで、富弼(ふひつ)を使者に何とかしようかして失敗。
再度彼が使者になるのだが、使者の立ち位置に違和感を感じ
契丹への呂夷簡(りょいかん)作成国書を見ると、
侵略問題のふりして自分を陥れる内容だった!
国書にこんな事をかくとはけしからんと急きょ国へ戻り
呂夷簡のやらかしを暴露する。
664:
一方西夏では物価に悩まされ、
どうしようもないくらいなっていく。
665:
仁宋は呂夷簡(りょいかん)の失敗で、諌官を増やす事にした。
そのうちの一人に夏竦(かしょう)を選んんだのだが
元からの諌官である欧陽シュウ等が異義が出る。
666:
諌官一人に成らなかった夏竦(かしょう)。
そのため、選ばれた者達を攻撃するが。
667:
仁宋の元に、筆跡はどう見ても石介(せきかい)と思われる
上呈がされたのだが。
668:
まだまだ仁宋の時代。宰相が杜衍(とえん)になった。
彼は慎重派だったので、たとえ仁宋が意思を表明したとしても
少しでも害があると思った内容は握りつぶすのでした。
669:
まだ宰相が杜衍(とえん)の時代。
彼はの婿蘇舜欽(そしゅんきん)が公金で神を祭り、
客を招いてどんちゃん騒ぎをした。
これを元に、反党人派の王拱(おうきょう)が弾劾する。
670:
一網打尽騒ぎのせいで宰相がバキバキに変わり捲った
その中には、以前から問題有りとされていた夏ショウも交じっていた。
だがそうこうする内彼も死に、今度は自分の利益と成る人をひいきする
文彦博(ぶんげんぱく)が宰相の一人となった。
これはいかんと、監察御史裏行の唐介(とうかい)が弾劾する。
671:
何やかんやで宰相が富弼(ふひつ)と
文彦博(ぶんげんぱつ)になった。
しかし二人は対立関係である。
不安になった仁宋は、彼等の評判を調べさせる。
672:
仁宋が、百官をねぎらう宴にて。
宴の中に魚釣りがあった、それに参加した
王安石(おうあんせき)は誤って
針に付けた餌を口に入れてしまったので
食ってしまおうとする。
673:
仁宋には子が無かった。
そこで、聡明とされる曙(しょ)が英宗となった。
しかし彼は病弱で、即位当時は政務をとれぬ状況だった。
そこで代わりに仁宗の皇后光献(こうけん)太后が代行した。
この事態を憂いた韓キは太后に摂政を止める様説得する。
674:
仁宗の次の皇帝英宗は、従兄の濮王允譲(ぼくおういんじょう)の子だった。
そこで、実の父の位をどうするか論議するが
太后&富弼派VS英宗&韓キ派と別れてしまう。
675:
宗の皇帝英宗は、濮議問題(太后&富弼派VS英宗&韓キ派)とは別に
兵士増加による大出費に悩まされる。
676:
宗の皇帝英宗の後を長子の項(こう)が即位し神宗となった。
先帝がなし得なかった革新への協力者を探すべく
目を光らせ、観察する。
677:
副宰相になった王安石は、
宋存続に有効な方法を模索する。
678:
副宰相になった王安石は、
財政改革に手を付ける。
679:
王安石は宰相になった。
彼は様々な新法を実施する。
680:
王安石の「青苗法」のリスクを知る蘇轍(そてつ)は、
積極的に論難する。
681:
王安石の「青苗法」を反対するのは」蘇轍(そてつ)だけでは無く
欧陽修(おうようしゅう)、韓キ、富弼(ふひつ)、そして
温厚派な司馬光まで反対していた。
そこで、司馬光は自分を受け入れない事に落胆し、
閑職へ左遷を希望し、英宋から勅命を受けていた
『資治通鑑(しじつうがん)』製作を
仲間と共に作成する。
682:
王安石の改革は、先端過ぎる為
理解者は皆無で、反対者ばかりであった
それでも方法はこれが一番であると王安石は押し進める。
683:
王安石の改革は官僚達の協力無しでは実現しない内容だった。
だが、官僚達はと言うと・・・?
684:
安上門の門監の鄭侠(ていきょう)は
王安石の改革がいかにマイナスであるかを
絵で示し神宋に献上する為。
685:
王安石が一時的に左還された。
しかし、彼の後任の一人呂恵卿(りょうけい)が
私欲の為に悪事を働くのが発覚し王安石は宰相の座に戻り
無私で改革の浸透を進めていたのだが。
686:
王安石が引退した後、最も彼を推していた神宋が崩御した。
そして彼の第六子煦(く)9歳でが帝位につき、哲宋となった。
哲宋の代わりに実権を握った宣仁太后は、安石の法案を次々潰していく。
687:
王安石の改革は全て潰された。
そして、旧法派で団結して盛り上げると見せ掛けて
内部分裂しお互いを詰りあうようになる
688:
哲宋が宋の親政が出来るようになった。
そこで彼は先帝である父の改革の再度実現化の為
前もって人材を見つけ、登用しようとする。
689:
徽宋が即位した。
が、ちょっとアレな皇帝なので、
母の向太后が派閥の争いを押さえ代わって摂政をするのだか。
690:
徽宋がちょっとアレな皇帝なので、母の向太后が
派閥の争いを押さえ代わって摂政をしていたが急死してしまった。
そこで徽宋の親政となり、先皇帝に習い彼も新法をすすめる。
691:
徽宋:先々帝、先帝と同じ意思を持っていたが
無能なので蔡京にだまされる。
蔡京:新法派のふりをして旧法派を潰しできる宰相ぶりを見せるが
実はそれは自分の地盤を作る為で、さらに権力を自ら行使出来る様徽宋をそそのかす。
692:
真宋の時代の欧陽脩(おうようしゅう)の話し。v 4歳で父を無くした彼は母テイ氏と共に父方の叔父曄(よう)の元へ行く。
693:
真宋の時代の欧陽脩(おうようしゅう)の続き。
母テイ氏は叔父曄(よう)の冷遇にもめげず
亡き夫の意思を継ぎ立派な読書人にすべく
幼い脩の教育をする。
694:
仁宋の時代。
韓愈の文集に心奪われた欧陽脩(おうようしゅう)。
現代の韓愈に成るべく勉学に励む
695:
仁宋の時代。
韓愈の文集に心奪われた欧陽脩(おうようしゅう)。
現代の韓愈に成るべく勉学に励む
696:
仁宋の時代。
才覚優れた欧陽脩(おうようしゅう)。
それゆえ、自然と実力派の仲間入りした。
しかしそのせいで無能派に左還されるのだが。
697:
仁宋の時代。
その誠実宣厚さで官史に戻った欧陽脩(おうようしゅう)。
それ以降も才能を磨く。
698:
仁宋の時代。
古文の開眼した欧陽脩(おうようしゅう)は
その才覚を伸ばす為、知り得る理解者や本に教えをこう。
699:
欧陽脩(おうようしゅう)が産まれた十二年後。
司馬光(しばこう)と言う男が産まれた。
彼は7歳頃から才覚を発揮し、腕白ながらでかい水瓶に
溺れる仲間を自力で助けたり、成長すると二十歳で及第しする程だった。
そんな彼は、前々から史実を極めたいと思っており
その書を作り献上しようと実行に移す。
700:
欧陽脩(おうようしゅう)に認められた曾鞏(そうきょう)の話。
彼は才覚が有り進士になるほどだったが、地方官ばかりと言う不遇を受けていた。
しかしそんな事は気にせず、どんな相手だろうと悪を行えばビシバシ罰を与える
正義感の有る男だった。
しかし、悪を行う者達が多く一人で賄えない事も有り、
それを補う為、そこの住民達に自衛手段を教える。
701:
仁宋の時代の欧陽脩(おうようしゅう)に一寸戻る。
「易」と言う書の一部分は、孔子である。
と言う事に疑問を持つ彼は、それに関し色々調べる。
702:
ある所に蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)
という兄弟が居ました。
父は遊学中で家に居ない為、つまの程(てい)氏が
読書の手ほどきをする。
703:
蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)
という兄弟の軾の話。
才覚があったのだが、鋭く指摘する性格が災いし
頻繁に左還され捲る人生だったのだが。
704:
蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)
という兄弟の轍の話。
端整謹直な人柄且つ正義感溢れる文を書いていた。
そして、官職を引退したあとは許州(きょしゅう)で
硬く門を閉ざし、自由に生活する。
705:
真宋から神宋時代に、召雍(しょうよう)という男が居た。
彼は若い頃遊学し、真理を知るべき事を悟り
数十年かけ哲学をあみ出し、その後は
あばら家で極貧生活の中で楽しみ続けるが、
彼は善行はしても悪行はしないので
近辺の人々は彼を気にして噂する。
706:
仁宋の時代。
才覚優れた欧陽脩(おうようしゅう)。
それゆえ、自然と実力派の仲間入りした。
しかしそのせいで無能派に左還されるのだが。
707:
周敦頤(しゅうとんい)に学んだニ程子(にていし)の
2兄弟の内、兄の程コウは「宇宙論」をメインに勉強かつ思考する。
708:
哲宗時代の話。
2兄弟の内、弟の程頤(ていい)は
師である周敦頤の主静を誠敬として受け継いでいた才人だったが
何しろ気質が峻厳しすぎて、皇帝にも他の者達にも
容赦なく厳しく接する訳だが。
709:
2兄弟の内、弟の程頤(ていい)は
師である周敦頤の主静を誠敬として受け継いでいた才人だった。
しかし誠敬だけではおかしいので無いかと思索する。
710:
真宗から神宗時代の話。
幼少時親を亡くし、栄達する事を目標に
頑張る張載(ちょうさい)と言う青年がいた。
そんな彼を大器とみた笵中淹(はんちゅうえん)は
張載に名教を楽しめと、自ら中庸一巻をさずけた。
喜んでそれを読むのだが・・・。
711:
真宗から神宗時代に張載(ちょうさい)と言う男がいた。
進士になったが、王安石(おうあんせく)とあわない為
(1070前後と思われる)致仕し、学問と教育を勤める一生を送る。
712:
張載(ちょうさい)がまだ若い時の話。
一心に学を歩猟する彼であったが、
自分より年下の二程子の学の深遠さに
敬服し、今まで学んだモノを捨て
彼等のようにあるべく学ぶ。
713:
歴史は進み、徽(き)宋の時代。
この皇帝、政治には全く無関心で
お気に入りの宦官童貫(どうがん)を使い
趣味に走り捲っていた。
一方杭州にいた幅広く趣味に通じる男
蔡京(さいけい)は、童貫が杭州に来たのを
チャンスと取り入ろうとする。
714:
神宗の時代に戻る。
政権を握った蔡京(さいけい)は、
出世の為なら何でもやる男だった。
ちょうど宰相の司馬光が、旧法復活を始めた為
いち早く行動に移す。
715:
徽宗の時代。
実権を握る為、野心家蔡京は
徽宗に趣味に没頭させようとする。
716:
徽宗の時代。
全くの趣味人皇帝徽宗は、豪華な宮廷に飽き足らず
素晴らしい庭園をも作る事にし、その材料集めを
朱メンと言う男にさせる。
717:
さて、豪華演出の為の朱メンは
即行任務遂行の、邪魔になるのは強引につぶして進めて行く。
718:
さて、豪華演出の為多量の美品、珍品を
強奪している、朱メンが作った応奉局。
即行任務遂行の作業員を、民衆から
容赦なく徴集して行く。
719:
徽宗が政治を丸投げして
道楽を楽しみ捲っていた頃。
宋の北に有るリョウと言う国を
天祚(てんそ)帝が治めていた。
しかし実際は徽宗のように趣味(狩り)
に走ったり酷い淫乱でリョウは腐敗していた。
それに目を付けたリョウよりさらに北の
生女真(せいじょしん)族の阿骨打(あくだ)は
今までリョウにされた仕打ちを返すがごとく
攻撃を準備していたが感づかれ戦闘になる。
720:
宋の北に有るリョウと言う国をおさめる
人望のない天祚(てんそ)帝。
とは言っても生女真(せいじょしん)族の
阿骨打(あくだ)のが問題ある利捲りなので
重い腰をあげるのだが。
721:
生女真(せいじょしん)族の
阿骨打(あくだ)は「金」をたてていた。
己を太祖とし仕掛けてきた宋軍より
リョウの方を攻略する。
722:
一方宋では弱体化しているリョウを討つ事に。
徽宗気に入りの童貫(どうがん)は
リョウの内状を知るべきと判断した。
そこで彼はリョウの天祚(てんそ)帝の
誕生祝いに使節として訪れ、人材探しをする。
723:
宋では弱体化しているリョウを討つ事にしたが
どうせなら同じくリョウを攻撃している金と
連係してリョウ討伐を目論むのだが。
724:
宋の皇帝徽宗が趣味の為に民衆から巻き上げた金を
バリバリ使い捲っていた頃。
方臘(ほうろう)と言う男が居た。
徽宗の命を受けた朱メンが、散々民衆を苦しめる為
方臘は秘密結社を作り、「打倒朱メン!」を
スローガンに同士を求める為立ち上がるのだが。
725:
宋は軍に主導権を取られない方針だった為
軍の弱体化が進み国賊によるテロでてんてこまいだった。
そんなある時、宋江という国賊が民衆に喝采を受けて居た。
そこで宋は、宋江達をスカウトしようとする。
726:
時は過ぎ、金は太祖が死に太宗がトップになった。
これは金を潰す好機と見た宋は、
リョウの官史、張カクに裏工作をさせる。
727:
敗したリョウは、金はそっちのけで
皇族問題でてんてこまい。
天祚帝を追い出そうとする側と
止める側とで悶着が起きる。
728:
リョウは、金の攻略を恐れた
天祚帝が逃げてしまったので
秦晋国王の耶律淳(やりつじゅん)が即位し
天錫(てんしゃく)帝となった。
その騒動を好機と見た宋は童貫を総大将として
リョウ侵略をしてきたので、将軍耶律大石(やりつたいせき)
にまかせる。
729:
リョウは、天錫(てんしゃく)帝が崩御し
また内乱がおきて居た
今度こそ好機と見た宋はまた童貫を総大将として
リョウ侵略をしてきたので、リョウは戦う事となる。
730:
弱体化したリョウを襲った宋の童貫。
然しあべこべに負けてしまった!
これはまずいと思った童貫は、こっそり金に応援を頼む。
731:
金によって、からくも勝利した宋軍。
金は勝利させたのは自分等であるから
それ相応の礼として、
リョウからとった領地は名義は宋でいいが、
税は全て金にまわす事とおどされた!
それじゃ意味ねーと趙良嗣(ちょうりょうし)
を派遣し、他の方法を提案させる。
732:
金リョウに勝利してもらった為
宋の領地を完全に戻して貰えなかった。
しかもその土地は、宋のすぐ東な為
どう見ても危険が有るような気持ち悪さがあった。
そこで返して貰えなかった平州を治める
リョウの官史張カクに工作する。
733:
金に不信感を持たせてしまった宋は
リョウの天祚帝に使者をだし、金を
混乱をはかるが。 734:
あいかわず趣味三昧で
国の金を無駄遣いする宋の徽宋(きそう)。
ある時お忍びで市中散策中、
一見の遊廓で、今まで見た事が無い美女
李師師(りりし)に心を奪われれしまい、
しょっちゅう彼女の元へ通うようになる。
735:
金の攻略でたじたじの宋。
皇帝徽宗は退位し、その座を息子に譲り
となった。
だがそんな事は関係無い金は、オリブ軍を主とし
バリバリ攻略してくる。
デモやっぱり宋の朝廷では主戦派VS講和派
で揉め捲るばかりなのだが。
736:
宋の朝廷では主戦派VS講和派
で揉め捲るばかりの中、主戦派の
統帥李綱(りこう)は、兵を募り
金を悩ます。
737:
宋軍が優勢だったにもかかわらず、
金と和解し、宋の李綱(りこう)軍は撤退せねば成らなくなった。
それを知った抗戦派の将軍達は、めちゃくちゃ悔しがり、
それならばと、撤退前に金軍を夜襲する事にする。
738:
金に屈辱的な講和をしてしまった宋。
これに屈する事を潔良しとしない軍民達は
李綱(りこう)の復職と
蔡京(さいけい)&童貫(どうかん)の
処分を強く要求する。
739:
金に宋の人質になっている趙倫(ちょりん)と言う男が居た。 彼は母国に帰る為、ある方法を取る。

740:
金との緊張が固まっていると言うのに
宋の朝廷側はお構い無し。
武器の管理すら擦り付けあうのだった!
741:
宋の兵士達の中に、郭京(かくきょう)と言う男が居た。
その男は、「自分の術を使えば金軍の武将
オリブ、ネメガの生け捕り等簡単な事だ。」
という噂を流す。
742:
都を金に落とされた宋。
欽宗一族はなんなく捕まる始末。
宗の皇帝と言う扱いは全くされず、
欽宗は、一人一室へ閉じ込められ
寒い中一晩過ごす。
743:
微宗と欽宗は身分が低い者が着る青枹(せいほう)
に着替えさせられ金の武将ネメガの前へ。
それを見て居た宗の家臣李若水(りじゃくすい)
は、ニ帝の服を抱き慟哭し、金人を罵る。
744:
微宗と欽宗一行は金まで連れて帰る事になった。
皇后二人は馬に乗った事が無いので
金の官史が小脇に抱えて馬に乗る事になった。
そこで金の官史は・・・?
745:
金まで連れていかれた微宗と欽宗一行は
自活せねば成らなくなったのだが・・・・・。
746:
話は少し戻って、金が宋都まで来た頃。
都の主な皇族は金に全て連れて行かれた。
しかし康王構(こう)は都に居なかった為
助かった。
しかしその事実を知らぬまま、金へ使節として
向かうのだが。
747:
イマイチ内容を把握出来ない康王構(こう/後の南宋の高宗)。
でも家臣達は分かっている前提で話してくる。
750:
話は戻って微宗の時代。
とある貧乏百姓の息子に飛と言う
少年(後の岳飛)が居た。
仕事の手伝いをしても、力が有り余っている
様なので、弓やヤリの先生に習わせる。


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南宋時代編
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