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十八史略春秋時代編


このサイトの公開20160306制作ギョロ

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はるか古代の中国春秋の時代。
鄭(てい)の荘公(そうこう)には段(だん)という弟がいました。
段は荘公を倒して己が位につくべく着々と勢力範囲を広げていました。
そしてついには荘公のいる京城(けいじょう)を襲うのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
衛(えい)では桓公(かんこう)を殺し州吁(しゅうく)が位につきました。
州吁は自分の地位を確立する為、宋(そう)、蔡(さい)、陳(ちん)と連合し
五日以内に鄭(てい)を倒すべく攻撃するのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
鄭(てい)の荘公(そうこう)は王命をかかげて宋(そう)を討つ事にしました。
宋は蔡(さい)、衛(えい)との連合軍で対峙するのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
ある時、鄭(てい)の荘公(そうこう)が周の許可無く宋(そう)の荘公を承認しました。
怒った周の桓王(かんおう)は荘公に戦いを仕掛けるのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
衛の宣公(せんこう)には急子(きゅうし)という世子がいました。
その後、宣姜(せんきょう)と言う美女を側室にし、
寿(じゅ)、朔(さく)の二人を作りました。
宣姜は寿を世子にする為、宣公に急子の悪口を言うのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉(せい)の襄公(じょうこう)と妹の文姜(ぶんきょう)は愛しあっていました。 しかし文姜は魯(ろ)へ嫁いでしまいます。
15年後、文姜は夫桓公(かんこう)と共に斉へやって来ます。
襄公と文姜は愛が再燃し、それに気付いた桓公は帰国する事にしました。
そこで襄公は送別の宴を開催するのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉(せい)の襄公(じょうこう)と妹の文姜(ぶんきょう)は愛しあっていました。
その為政治を見なくなり毎日乱痴気騒ぎ。
不満を持った大夫、連称(れんしょう)と管支父(かんしほ)は
公子無知(むち)と共謀し、襄公を討つ為館に押し入ったのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉(せい)の襄公(じょうこう)が殺され、その後無知(むち)が即位したものの 無知一派は殺されてしまいました。
その騒動から逃れていた襄公の弟糾(きゅう)と小白(しょうはく)は
我先に即位すべく斉へ急ぐのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉(せい)では桓公(かんこう)が即位し、
ライバルだった兄の糾(きゅう)を後押しした魯(ろ)を討つ事にしました。
魯の荘公は曹ケイ(そうけい)を伴い対峙するのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
息候(そくこう)は陳(ちん)から妃を迎えました。
その妃息ギが蔡(さい)を通った時、蔡の哀公(あいこう)に歓待されるのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
晋の公子重耳(ちょうじ)は太子申生(しんせい)の謀反に加担した罪を問われ
使者勃テイ(ぼってい)は重耳の命を狙うのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
ゲームで十八史略41より少し前。
晋の献公(けんこう)は正夫人驪姫(りき)の口車に乗って
太子申生(しんせい)を強敵の狄(てき)征伐へ向かわせるのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
晋の献公が亡くなりました。
後を継ぐのは誰になるのでしょうか???
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はるか古代の中国春秋の時代。
秦によって晋の恵公(けいこう)が立ちました。
しかし恵公は恩を仇でかえします。
怒った秦の穆公(ぼくこう)は晋に攻め入り恵公を捜すのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
秦で捕虜になっていた晋の恵公(けいこう)が戻って来ました。
恵公は自分の地位を脅かす重耳(ちょうじ)に刺客をよこします。
重耳は斉へ向かうのですが、食料がつきてしまうのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
晋の恵公(けいこう)が没し懐公(かいこう)が立ちました。
しかし人心は懐公から離れ、重耳(ちょうじ)を欲していました。
秦の穆公(ぼくこう)は重耳を連れ大軍で晋へ向かうと、懐公は逃亡しました。
位に即いて文公(ぶんこう)となった重耳は、とどめをさす為懐公を捜すのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
楚(そ)に襲われた宋(そう)が晋の文公(ぶんこう)に助けを求めました。
しかしどちらも恩がありました。
そこで楚に加担している曹と衛を攻撃するのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
楚(そ)に襲われた宋(そう)が晋の文公(ぶんこう)に助けを求めました。
しかしどちらも恩がありました。
そこで楚に加担している曹(そう)と衛(えい)を攻撃し見事倒したため
楚のほとんどが撤退しました。
しかし楚の成得臣(せいとくしん)が残っていました。
文公は成得臣と戦うのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
晋の文公(ぶんこう)はかつての恨みをはらす為秦と共に鄭(てい)を襲います。
勝ち目の無い戦いに鄭は秦に密使を送るのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
晋と同盟を結んでいる鄭(てい)を秦が襲い、さらに晋と同性の滑(かつ)を滅ぼしました。
怒った晋は引き揚げていた秦の軍勢を襲い、3人の将軍を捕まえようとするのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
楚(そ)との戦いで大敗した晋(しん)は、斉(せい)に見くびられて
晋の与国の魯(ろ)と衛(えい)に攻め込まれてしまいました。
そこで晋は800の戦車を送り込むのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
呉と晋の連合軍はホク陽を攻める事にしました。
しかし守りがかたく落とせません。
連合軍が焦躁にかられていたある時、ホク陽の扉が開き連合軍はなだれ込みました。
すると扉は閉じ、上から矢石が雨霰と降って来るではありませんか。
絶体絶命の中、一人の男が開門を試みます。
孔子の父、孔コツでした。
果たして彼は扉を開く事ができるでしょうか??
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はるか古代の中国春秋の時代。
孔子の父、孔コツのお話です。
ホク陽の戦いから7年後。
斉軍が魯の蔵ソン氏の采ハ(?)防を取り囲みました。
魯は援軍を出しましたが、旅松(りょしょう)ではばまれてしまいます。
そこで、防にいた孔コツが当主蔵ソンを旅松の援軍の元へ送り、
更に防に戻ることにしたのだった! 54
はるか古代の中国春秋の時代。
晋軍はホク陽を攻める事にしました。
しかし守りがかたく落とせません。
軍の荀偃(じゅんえん)と士カイは軍を引かせる様申し出ます。
しかし逆に七日以内にホク陽を落とせといわれるのでした。
55
はるか古代の中国春秋の時代。
晋と楚に挟まれた鄭は晋につくと楚に楚につくと晋に攻撃される事態を何とかすべく
ある方法を考え付きます。
その方法とは??
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉の霊公の母声孟子(せいもうし)と大夫の慶克(けいこく)は
出来ていました。
とは言え堂々と会いに行くわけにはいきません。
そこで女装して宮女のふりして行くのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉の霊公の母声孟子(せいもうし)と大夫の慶克(けいこく)の策略で
高固(こうこ)と、ホウ牽(ほうけん)が失脚しました。
高固の子高弱(こうじゃく)は廬(ろ)へむかい斉に背きます。
霊公は崔杼(さいちょ)、慶克(けいこく)を派遣し
討とうとしますが、斉の実権を握る国佐(こくさ)が阻むのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉の霊公の死後、荘公(そうこう)が立ちました。
荘公は、家臣の崔杼(さいちょ)の妻(と思われる)の棠姜(とうきょう)と出来てしまいます。
堂々と棠姜に会いに来て、さらに崔杼の私物を勝手に人にやったりする荘公に腹を立てた
崔杼は荘公の暗殺を企みます。
そんなことは知らず荘公は崔杼の家にやって来たのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
晋と楚が和平の兆しを見せました。
それを察知した宋の向戌(しょうじゅつ)は二国の宰相
晋の趙武(ちょうぶ)、楚の屈建の説得を試みるのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
斉の崔杼(さいちょ)の二子、成と彊(きょう)が
崔杼の義弟と後妻の連れ子を殺害してしまいました。
腹を立てた崔杼はライバルの慶封(けいほう)に助けを求めました。
慶封は家令の廬蒲ヘツ(ろほへつ)に成と彊を討って出る様命じました。
しかし、守りが固く落とせません。
果たして討つことができるのでしょうか?
61
はるか古代の中国春秋の時代。
斉の慶一族を殺そうと企んだ廬蒲ヘツ(ろほへつ)は
まずは慶舎(けいしゃ)を討つことにしました。
果たして討つことができるのでしょうか?
62
はるか古代の中国春秋の時代。
斉の景(けい)公は高・欒(らん)の二人に政権をとられていました。
この二人は酒癖が悪く、どちらも妻の言いなりだった為政治はむちゃくちゃでした。
そこで景公は二人を討つことにしたのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
3歳の孔子は父を亡くします。
そして母と一緒に父の家のある陬邑(すうこう)を去り
都である曲阜(きょくふ)ヘ向かうのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
13〜53才の40年間スカウトされるべく孔子ががんばります。
65
はるか古代の中国春秋の時代。
魯にスカウトされた孔子は城壁を壊すことにしました。
しかしそれに反対の公山弗擾(こうざんふつじょう)と叔孫輙(しゅくそんちょう)が
軍勢を率いて襲って来たのです。
果たして魯軍は勝てるのか?
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はるか古代の中国春秋の時代。
魯にスカウトされた孔子だったが、失脚し弟子と共に漂泊の旅に出ます。
その途中孔子は弟子達とはぐれてしまいます。
弟子の子貢(しこう)は孔子を探すのでした。
67
はるか古代の中国春秋の時代。
一時は魯にスカウトされた孔子だったが、失脚し弟子と共に漂泊の旅に出ます。
果たしてまた魯にスカウトされる日は来るのか?
68
はるか古代の中国春秋の時代。
呉の公子光(こう)は呉王僚(りょう)殺害を謀り酒席を設けて王僚を招きます。
そのことを知っている王僚はたくさんの兵を引き連れそこかしこに待機させました。
公子光はというと、丸腰に見せ掛けてたくさんの兵を地下に忍ばせていました。
酒席を進めての暫くのち公子光は席を立ちその場を離れてしまいました。
緊張が走る中、専諸(せんしょ)と言う男が焼き魚を王僚に捧げるのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
呉の公子光(こう)は呉王僚(りょう)殺害し、呉王闔廬(こうりょ)となりました。
3年後、呉王は伍子胥(ごししょ)、と伯ヒと共に楚を伐つ為に攻め入るのでした。
70
はるか古代の中国春秋の時代。
越の王が死にました。
呉王闔廬(こうりょ)が攻めて来ました。
王の後をついだ勾践(こうせん)は家臣が考えたとある策を持って対峙するのでした。
71
はるか古代の中国春秋の時代。
呉王闔廬(こうりょ)が越との戦いでの負傷が原因で死亡、
王の後をついだ夫差(ふさ)は父の仇を伐つべくひたすら兵を訓練していました。
それを知った越の王勾践(こうせん)は呉に戦いを挑むのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
呉王夫差(ふさ)は父の仇、越を伐ちました。
越の大夫ホウ同(ほうどう)は夫差と家臣伍子胥(ごししょ)の仲を裂くべく
呉の宰相伯ヒ(はくひ)に賄賂を贈り、伍子胥を讒言させるのでした。
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はるか古代の中国春秋の時代。
呉王夫差(ふさ)の家臣伍子胥(ごししょ)を自害させた越は
夫差が黄池(こうち)で覇者になるべく呉を留守にした隙に攻め入るのでした。
74
はるか古代の中国春秋の時代。
越王勾践(こうせん)から六代目の無彊(むきょう)は
強国楚に戦いを挑みました。
楚の威(い)王は滅ぼすべく迎え撃つのでした。
75
はるか古代の中国春秋の時代。
晋が4つに分裂しました。
中でも智の智伯瑤(ちはくよう)が力を持っていて
残りの趙、韓、魏の力を弱体化させようと企みました。
韓と魏を抱き込み趙を水攻めにしていたのですが、韓と魏が裏切り
智軍を水攻めをし智伯瑤を捕らえようとしました。
果たして捕まらず逃げられるのか???


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